HOME > 東京顕微鏡院とその時代 > 鎌倉にて命を拾ひ東京にて産を失ふの記

 関東大震災当日、遠山椿吉は鎌倉の自宅で被災しました。「…危險より遁れんが爲め、壹尺でも、壹寸でも、家屋より遠ざからんと焦つたが、奇なることには平伏したまゝ、身體の自由を失つて、立つ事は固より、這ふことも出来ぬ、臂を張つて上軀を支へんとしても夫れも協はぬ、總身全く不隨に陥つたのである」と地震発生時の様子を語り、地震に続く津波、火災から逃げる様子が綴られています。

 また東京顕微鏡院については、「東京顯微鏡院は地震にはさしたる被害がなかつたのに、火災の爲に一日午後四時頃に全燒した。富田副院長以下院員にて辛うじてイムメルジオン二?と化學天秤一基を携へて上野に逃れ、野宿に夜を明して、翌日白金の宅に到達したそふである。…中略…這次の震火災では幾多の人命の外、永世得難き國家の什實をも無數に鳥有に歸したので、我顯微鏡院の損失の如きは言ふに足らんが、予の身に取つては、三十年間の經榮に獲った學問上の資産として、聊か愛惜に堪へないものがある。今此記の終りに於て、不換金的物他體二三に就て死兒の齢を算ふるの痴態を許されたい」と惜別の情を述べています。


1924(大正13)年「東京顕微鏡学会雑誌」 第31巻第1号*


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鎌倉にて命を拾ひ東京にて産を失ふの記 (1.4MB)